わかってもらえなさをどう考える
どうも。
暑いですね。自分のことじゃないけど、いろんな事件のニュースなどみる度に感じる「あぁ、しんどいな」って部分を綴ってみます。
わかってもらえなさ
自分の身に起きたことを自分以外の人にわかってもらうのは難しい。
言葉で説明することはできても、かならずしも共感してもらえるとは限らないから。
理解してもらおうとすればするほどなぜだか。
周囲から異物を見るような視線を投げつけられ、さらに傷つくことがあります。
自分の経験にないことを話に聞いただけでは人は実際の状況を想像しにくいようです。
よほど思考の訓練のできた人でなければ、自分に都合のよい情報だけを読み取って自分の経験と照らし合わせて言いたいことだけ言って、「ハイおしまい」となってしまうのかもしれません。
たとえば、こんな事件
先日受けた講義で。
「ゆあちゃん事件」にあれほど人が関心を向け共感し、その死を悼む人々がこぞって集まったのは被害者が書いた手紙という感情移入材料があったためではないかと先生が分析されていました。
あの文章は、自分の抱える傷について打ちあけたい人や自分が何者であるかを表現したい人、怒りや悲しみや憐みなどの感情を放出したい人々にとって共感をおぼえるのに十分な材料だったのではないかとのこと。
理不尽な抑圧に苦しんだ記憶は、誰しも心当たりがあるのかもしれません。
児童虐待防止への関心が一層高まったきっかけになったのではないかと思います。
わたし個人の感想を言わせてもらえば、(ちょっと斜めな目線からですけど)世間に響くほど大きく声をあげるような人々は、その事件とは適度な距離があって安全であり、且つ、自分にも大きなメリットがあるなら声を出す。けれども、メリットがなければ出さないのではないか?と思いました。
もちろん、小さな命に対する卑劣な無慈悲に、無条件に怒り震えた人もあろうかと思います。でもそういう思慮深い人はたいていの場合あまり声を荒げないものです。
こんな事件も
昨年、児童施設において子どもが職員に危害を加えた事件も記憶に新しいところです。被害者の方は命を取り留めたものの意識不明の状態で発見され退院後も障害が残ったようです。衝撃的なニュースでした。皆の目が向いていたはずです。
ところが、その後裁判がどうなったというようなニュースを見ていません。
なぜか?
たしかに、あまり例のない事件でした。
加害者が小学生です。
でもそこに過失があったことは明らかです。(どうみても事故じゃない)ではどう責任とらせる?ってなると。本人はまだ責任を問われる年齢に達していない。じゃ親?親と誰が話し合う?ってなるともうなにがなんだかよくわからなってしまう。
この加害者が小学生の事件には 「これ自分のイメージする被害事件ではない。何も言えないな」と感じた人が少なからずいたのかもしれません。
また、事件が起きた管轄の役場ではあまり事件の真相解明に積極的ではなかったようです。
さらにつっこんだ推測だけれど、被害に遭った経験のない人は、被害直後の人の心の振る舞いを見たことがありませんから「大丈夫だろう」とか「理解できない」とか思われてしまったのではないかな、とも思いました。あくまで推測ですが。
本当のところはわかりませんが、二度とこのような事件が起きない方向へ対策がなされるといいなと思っています。
多重迷走神経理論
「多重迷走神経理論」という、心の状態を生物学的観点から読み解こうとする理論があるそうです。
日本ではまだ認知度は低いらしい。
わかりやすい視点で理解しやすい考え方だと思ったのでそれを軸に考えてみます。
人は普段「安全が保たれた環境」では体はリラックスしています。そこでは最も新しい神経系統(腹側迷走神経システム)が働いているそうです。その状態では誰もが安全に群れに所属できるリラックスモード。知性をともなってその人らしい社会性や創造性を発揮できます。
ところが、そこへ危険が迫ると「危険がある環境」と体が判断し、より原始的なひとつ古い神経システム(交感神経システム)が発動し戦闘モード(危機回避)になるだそうです。
さらに絶体絶命な危険が迫ると「凍りつくべき環境」となり最古の神経システム(背側迷走神経システム)が発動し、死んだふりモードになるのだそう。演技ではなく、本当に固まった状態になるそうです。
(自然界では、獲物が死んだように見える状態だと捕食者が「変だな抵抗しないぞ?病気の獲物かな?食べない方がいい」などと判断して立ち去る場合がよくあるのだそうです。九死に一生を賭けた最終手段ですね。)
とにかく非常時には、この3段階のシステムをスイッチさせることで事態に対応しようとするのだそうです。
共感しやすさ・共感しにくさ
群れにいた一匹の羊が運悪く狼と鉢合わせてしまった状況を想像してみてください。
羊の体のなかでは、それまでのリラックスモードシステムから一段階切り替わり、戦闘モードシステムに入ります。スイッチのトリガーは、言わずもがな狼の存在です。
そうなると羊の思考は「やるか、逃げるか」という風になります。
選択肢を少なく視野を狭く、考えることを減らしてとにかく集中。
普段のような社交性よりも危機回避が最優先事項です。
なんとか切り抜けなければなりません。
やらなければ死ぬ、逃げ切らなければ生きられない、といったところでしょうか。かなり切羽詰まった状況です。
人間に置きかえてみるとどうでしょう。
人は羊ではないので頭突きもできませんし猛ダッシュで走り去ることもできません。
では頭突きのかわりにできること・・・威力のありそうな言葉をありったけ並べて勝とうとするとか、理屈で勝とうとするとか、あるいは群れに知らせて数で勝とうとするとか?最終的には武力で反撃?それはよほどの非常事態ですね。何にせよ追い込まれた状況下なのだそうです。
あとは、猛ダッシュはできそうだけどしませんよね。だったらどう逃げる?この社会では逃げ場は少ないので、すっかり逃げられる場所など無いに等しいかもしれません。危険に遭うたびに友達と絶交宣言したり、転職したり、転居したり、・・・無理です。現代社会で逃げるとすれば無言を貫くしかない?
いずれにせよ周囲の安全リラックスモードにいる羊たちから見れば、切羽詰まった様子の戦闘モード羊はさぞ異様に見えるはずです。その異様な様子から「危険!あぶない!」というメッセージを察知し、すかさずみんな一斉に逃げる。羊はいつも群れで行動してるし共感しやすそうな感じがしますよね。
そう。
羊なら一斉に逃げる。
でも人間はそうはいかない。
人間は本能じゃなくルールや常識で守られた社会に頼っています。
自分の生活以外のことを考えたり判断する習慣がなくても生きられる。
だからヘタすると「危険!あぶない!」と訴えている人こそが安全な場の空気を乱しているように見えてしまい、疑いはじめる。そしてその異様な慌てぶりに、ただ眉をひそめてしまうのではないでしょうか。
必死に訴える人はそれでもなんとかして状況をわかってもらいたくて詳細に伝えようとしますが、皮肉なことに言葉は便利な伝達手段でありながら諸刃の剣でもある。感情的な言葉を耳にした周囲の人にとっては、まるで被害者自身が危険要素であるように見えてしまうことすらあります。
でも。危険が身近にあるとき人が戦闘モードに入るのは正常なシステム動作なのだということを忘れてはなりません。改善が必要なのはあくまで環境です。狼が狼として存在する環境のエラーを正さないことには、問題解決になりません。
ただ前述のように人間界ではかならずしもそのエラーが発見され正されるとは限らない。
かたや本当に危険が身近にある状態の戦闘モードの人、かたやテレビやPCを前にお茶をすすりながら、あるいは会議早く終わらないかな~なんて終業時間を気にしている安全リラックス・モードの人々。
かなり強力なインパクトをもった材料でもない限り、この共感しにくさはどうしようもないものです。
なにを学べばいいのか?
個人が自力で環境を変えるのには限界があります。
狼が去るまで羊の戦闘モードは続くわけですが、狼の存在が現状のまま保留だと、羊の戦闘モードは永遠に続くことになります。
共感してもらえていない環境で、ひとつの命が危機にさらされ続けている場合が往々にある。
そう考えると。
世知辛いというかなんというか、ちょっとしんどいなって思いませんか。
便利で快適な現代の生活はいいものだと思います。
インターネットあるし、世界中の人の考えを知ることできる、思いたったらすぐにどの国にだって行ける、まさに「天国か!」みたいな時代です。この時代に生まれてほんとツイてたと思う。
でもね、快適さにこだわり抜いたぶん、どこかに「共感」を置いてきてしまったのではないかしらとも思います。
共感しにくさは個人的な一つ一つのエラーから目をそらさせ、エラーはエラーのまま次世代へ引き継がれ連鎖します。
これどうしたらいいんでしょうかね。
せっかく人間にはいろいろな特技があるんだから、知性とかでなんとかなりませんか?
みんなで哲学とか心理学とか学べばいいのかな?
それとも愛情学とか?親学?
考えてもわたしにはわからないんですけどね。
ただ、可能性とか想像とか、もっと数多くの選択肢があることに気づけるようになれたらなって思う今日このごろでした。